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半導体産業の光と影…エヌビディア、インテル、そしてNEC

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上の記事出所 : 日本経済新聞 2023/12/24(金) 3面 (総合2)

✳️ パート I. 

エヌビディア、一気に半導体売上高首位へ 

今期2.2倍 インテルサムスン以外は30年ぶり 生成AI追い風

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO77225790T21C23A2EA2000/%20

 米調査会社のガートナーによると、1992年から4半世紀にわたり米インテル半導体の売上高で世界首位となり、2017年以降は同社とサムスンが入れ替わる状態が続く。22年はサムスンが1位だった。

エヌビディアが23年に首位に躍り出れば、約30年ぶりに「新顔」が業界盟主の座を手にする形となる。

 生成AIを成長領域と見るクラウド大手がAI半導体を独自開発の流れも強まっている。米Googleが16年に開発を表明したのに続いて、業界最大手の米アマゾン・ウェブ・サービスも18年に独自のAI半導体を発表した。11月には米Microsoftも参入の考えを示し、クラウドの3強がそろい踏みする形になった。

 各社が重視するのは自社に必要な機能のみを盛り込み、コストを下げることだ。

[ 備忘メモ ] 

◉ この大きな変化の背景にあるのは、Chat GPT に代表されるAI半導体の伸び。振り返ると表 (写真も日経新聞記事から) にある通り、32年前の1991年には日本の半導体メーカーが世界をリードしていた実績も「あった」ことは覚えておきたい。

 [ 参考記事 その1] リンク先URL🔗 日本の電機産業、その凋落 - Andyの雑記帳blog (andy-e49er) ⁦‪@Accurasal‬⁩

◉ 日本勢は、NECが1985年に海外一貫生産拠点として立ち上げたアメリカ合衆国カリフォルニア州ローズビルの地で、メモリIC (DRAM) や ASIC製品の前工程から後工程まで現地一貫生産を行なっていた。それが、旧エレクトロニック・アレイズ社を買収したNECエレクトロニクス社の新たな北米一貫生産拠点であった加州ローズビル工場。オペレーターの転職や引き抜きを防ぐためにあえてSilicon Valleyから離れ、、通勤するには2時間以上かかるローズビルの土地に決めたと聞く。

そこへ本社国際資材部から派遣され87年6月から92年4月までの五年間、今でいうサプライチェーンマネジメント業務に従事した。筆者はアラサーの頃、この世界一位だった当時の生産ビジネス、それも日本メーカーで唯一無二の "北米現地生産" に直に携っていた。

当時の苦労ややりがいなど、今も自身のキャリアの一つとして私のバックボーンにあり、誇りに思っている。

 [ 参考記事 その2] 🔗リンク先URLはこちら▼

半導体業界の入れ替え戦 - Andyの雑記帳blog (andy-e49er) ⁦‪@Accurasal‬⁩

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そしてエヌビディア世界一になった(2/21,2024)🔗 30年前から知る "NVIDEA" その栄華 - Andyの雑記帳blog (andy-e49er) ⁦‪@Accurasal‬⁩

為末大さん推薦図書https://x.com/daijapan/status/1740474024680165408?s=46

今回、2024/2/25(日)に、データ記録していたアーカイブから以下を転載

✴️ パート II. NECの経営決断を振り返る

(2014/1/17 本メモを作成)
シリーズ検証半導体興亡史(2)
86年日米協定発効、盛衰の岐路、続いた誤算―NECに覇者の驕り
日本経済新聞 2014年01月12日 朝刊 11面 1868文字  

1986年に結ばれた日米半導体協定。日本の関係者は「弱体化した米半導体産業のあがき」と受け止め、それが自分たちのターニングポイントになるとは考えなかった。世界首位に立ったNECを筆頭に、日本の半導体産業には覇者の驕(おご)りがあった。
 「弱りました。どうしましょう」
 1986年に日米半導体協定がスタートしてから数年たった11月、通商産業省(現経済産業省)の高官が東京都港区芝にあるNEC本社に社長の関本忠弘を訪ねてきた。
 協定では日本が使う半導体の2割を外国製にすることになっていたが、この年は輸入が増えず2割を下回りそうだった。達成できなければ日米貿易摩擦が再燃しかねない。うろたえる高官に関本はこう言った。
 「まあ、何とかなるだろう。心配しなさんな」
 高官は納得がいかない様子だったが、関本はそこで話を打ち切った。
 ふたを開けると、その年の輸入量はぎりぎりで2割を超えていた。後に関本はこう種明かしした。「なに、簡単なことさ。12月の在庫をちょいと積み増して1月に買い取らせた。あうんの呼吸というやつだ」
「数値目標」のむ
 パソコンの「PC―9800」シリーズで圧倒的な国内シェアを持ち、オフィスコンピューター(オフコン)やメーンフレーム(大型汎用機)も作るNECは当時、日本有数の半導体ユーザー。この程度の細工は難しくなかった。
 80年代、ドル高を追い風に日本製の半導体モリーが米国で猛威を振るった。米メーカーは相次いでメモリー事業から撤退。米国では工場閉鎖や大量レイオフ(一時解雇)が続く。85年に半導体売上高で日本勢が米国勢を抜き首位に立つと、ジャパンバッシング(日本たたき)が頂点に達する。同年6月、ついに米半導体工業会は不公正貿易慣行に対する報復を定めた通商法301条にのっとり日本を提訴した。
 米側の要求は2つ。1つは日本が半導体の輸出を減らし、輸入を増やす「数値目標」の設定。もうひとつは日本製半導体のコスト構造を明らかにしてダンピングを立証するための生産ラインの「査察」だ。
 「ズボンは下ろすがパンツは脱がない」。当時、日本電子工業振興協会の会長も兼ねていた関本はこんな言い回しで査察は拒んだが、努力目標としての数値設定を受け入れた。
技術開発は停滞
 日米半導体協定の締結、そして協定に基づく数字のつじつまあわせ。これらが後に危機を招くことに当時の経営者たちは気づかなかった。半導体モリーにおける日米の価格競争力の差は圧倒的。90年になってもNECは半導体で世界首位。2位は東芝、4位は日立製作所だ。「政府に泣きつく米半導体業界などなにするものぞ」との自信が日本には満ちていた。
 しかし現場では思いもしないことが起きていた。元NECの半導体技術者はこう明かす。
 「日米半導体協定の実像は当時の世界ナンバーワンとナンバー2の国同士による官製談合。競争を抑制した結果、半導体モリーの国際相場は安定し好業績をもたらした。でも技術的な成長は止まった」
 日本の強みは不良品率を下げ歩留まりを上げること。生産量の抑制は技術開発の停滞につながった。韓国、台湾勢との技術差はみるみる縮まっていたが、半導体事業の好業績が日本の経営者の目を曇らせた。
 96年7月に日米半導体協定が失効して官製談合が終わると、価格競争力を高めた韓国のサムスン電子、SKハイニックス、台湾積体電路製造(TSMC)などアジア勢が一気に飛び出した。米国勢はCPU(中央演算処理装置)のインテルを筆頭に得意な製品に絞り込み世界市場に返り咲いた。総合メーカーの古い体制を引きずった日本勢だけが取り残された。
 90年代末、NECでも半導体事業が巨額の営業赤字を計上するお荷物になる。「半導体部門が国賊ならぬ社賊と呼ばれることもあります。何とか元気を取り戻したい」。半導体部門出身の元会長、佐々木元は当時、こう語った。
 「このままではつぶれる」。99年にNEC社長に就任した西垣浩司は半導体事業の切り離しを決断した。メモリー部門を分社化し日立製作所と共同出資のNEC日立メモリ(現エルピーダメモリ)を設立した。
 2002年8月、大規模集積回路(LSI)部門のNECエレクトロニクス(現ルネサスエレクトロニクス)への分社を諮った臨時株主総会。一株主として出席した関本が「世界一だったメーカーがなぜ半導体事業を切り売りするのか」と質した。西垣は「業績の変動が激しい半導体事業の経営は難しい」と応じた。市場の変化について行けなくなった日本の電機産業を象徴する一言だった。