(元の題:華麗なる学歴と職歴)<再掲/表題変更>編集用
ITメデイアエグゼクテイブ会員セミナー録 26日夜@大手町JAビルにて
◇◇ 社長業のキャリア講演会 ◇◇
(プログラム内容はこちらをクリックし下の方に記載しています: http://d.hatena.ne.jp/andy-e49er/20110725 )
華麗なる学歴と職歴「社長業の”フルハウス”」(井上社長の言)のシーメンスジャパン社長殿から、彼のキャリア・考え方・経営哲学のお話を伺うメンバーズ機会に参加した。
東洋経済誌の編集次長、ヘッドハンター会社の井上社長が司会・モデレーター。インタビュー的な滑り出しで話はのっけから面白く、テレビ番組を生でスタジオ観覧しているノリで引き込まれる。
ご本人の学歴と職歴(キャリアパス)の詳細を80分以上にわたり聴講。Q&A二番目の私を含め六人くらいが相次いで質問し30人程度の会場は知的議論の独特の雰囲気に包まれた。
こういう経験は自社内では決してできない。外の世界でいろいろ活動し、勉強を続けて行こうと意を強くした。
本ブログでまとめるとして、今回はその1・・・
◆この世の中には凄い人がいるものだ。MIT工学部で電機系修士号。リクルート(末尾記述あり:何かと縁が多い)に1986年海外留学生として、ある意味で「Headhunt」され、R社へ初の海外留学生の新卒として入社。(リクルートは当時就職情報事業でダントツだったわけだが、海外留学生も自ら数名獲得し広告塔に仕立てた) すぐに今でいえば社内起業的な新規事業担当に配属。その際に与えられた銀座エリアの”どぶ板営業”実習を1か月やるも、飛び込み営業で一軒も受注が取れず。(MITでMaster取った理系の学生にどぶ板営業実習させたR社もスゴイとコメント出た) 「受注ゼロではプライドが許さないだろう」、と上司に言われ更に一か月間銀座での営業を延長(なんとか3件の仮受注はとれたそうな)。当時は後年にマスコミにも登場し一躍有名になった杉並区教育長をされた藤原氏が営業系上司だったとか。
◆日本のバブルがはじける前の超元気な頃に4年間、リクルートで働く。担当は通信回線リセール事業。当時、規制緩和された通信事業に新規参入する、新規分野の事業。ここで事業を行うことを、社内稟議書作成・役員プレゼンから始まり、事業プロセスの全てをここで体験する。
大体、大きな成功を収めた人材は、若いころにどこかで「すべてをそこで叩き込まれた」と言った体験を「体得している」経歴者が多いと思う。ご多聞に漏れず、だ。
◇その後、MITスローンへ自費MBA留学を決意する。社の厚意で休職扱いにしてくれた。本人的には志高いことだったろう。R社が 「MBAとったらR社辞め絶対にお前は転職するだろ」と確信しつつ、一応「休職扱い」にしてくれ、転勤費用くらい持ってくれたとか。太っ腹というか人に投資する姿勢なんだろうなぁ。
◆80年代後半当時の日本のバブル期には、一平社員向けにもこのような太っ腹が認められたのであろう。良い意味でおおらかで成長力のある日本経済、新興企業のスターダムの頂点を極めたのが、まさにリクルート社だったわけで、ある意味での象徴的なエピソード。
◇アメリカ留学生活ではインターンシップがあるが、夏休み、MITのスローンの学生では一般的らしいが、投資銀行とコンサルで働き、その縁でマッキンゼーに入社。
◆経歴は略すが、その後、GEジャパンの社長。TYCOジャパン社長。そして。。 現在は、SiemensJapan社長CEO 兼 地域代表 兼 Healthcare事業部門リード(日本市場の医療事業責任者)。と、いうことでほぼ6年に一回転職。
◇もともと「帰国子女」ならぬ、海外子女だった。学歴が特にユニーク。イランの首都テヘランの日本語学校で学ぶ。次いでアメリカのジョージア州の中学と高校で学び、首席で卒業(頭イインダネ)。そしてそこからMITに合格。ジョージア州と言うDeep-Southから「なんでお前Georgia-Techに行かないの?」と言われながら、珍しくも東部の名門に入学。ご本人曰く、当時は完全に「アメリカ人」学生だった、とのこと。
・・・・・次回からは彼の話・インタビューそしてQ&Aから得られたエッセンスをサマリー
2011年(節電目的 夏の輪番集中休日 第1回目)7月 夏休み自由研究 ◇◇社長業のキャリア講演会◇◇ この初回ブログ記事に続きシリーズで、次は【織畠(おばた)潤一氏略歴】およびトークライブの感想などを私の言葉で短くまとめています。 http://d.hatena.ne.jp/andy-e49er/20110730 |