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 24年のときがくれた贈り物

24年の歳月、それが私に与えてくれたもの・・・Aux Six Arbresでの邂逅。(写真は午後休暇を取り、行きつけのライブラリーで読んだ、海外生産現地進出の本。お奨め。読みやすいです⇒末尾に紹介のURLがあります)
 振り返ると24年前、1987年見ず知らずの米国(現地子会社工場@Sacramento/Roseville)へたった一人の若者が派遣された。大志を抱いて出発し、そして降り立った到着地とは…。それは今も決して忘れはしない「時の記念日」6月10日 だった。
 このとき。海外出張でアメリカに渡るのは若者は産まれてこのかた初めて。実は海外出張もこの時(若者の現地工場への初赴任)のために、慌てて業務関係の深い同様のシンガポール工場へ、結婚直後の5月GW連休を全てつぶして出かけたのが会社業務出張で初めてのことだった。出張として初の東南アジアとアメリカ。結婚もこのアメリカ赴任の直前。4月に慌てて、もともとの予定から半年早めて、赴任前に間に合わせ…というようなドタバタ状況であった。不思議とこの一年間は本社への異動転勤から、全てがガラガラと大きく転換し、良い方向へとどんどん転がっていく感じではありました^^ もちろん赴任するそのRoseville工場やその街(Sacramento)へ出向くのも全くの初めてでした。
行った先で出会う同僚(アメリカ人現地メンバーは当たり前として、)日本から派遣の事業部メンバーは一人として面識のない、半導体メモリ事業の人たち。自分のそれまでの職場とは新たな業務以外では全く人的な接点が何もないという、何から何まで初めての、ナイナイづくしで放り込まれたのでした。初めてづくしの不連続この上ない、今思えば「大変革のスタート」であった。
思えば、このときの上司はすごいリスクのある人選を随分と思い切って下したんだなぁ〜と(気付く)。つまり「失うものは何もない」状態の男、それがこの俺だった・・・ということなんだろうか。
 カリフォルニアの真っ青なカラリと晴れ渡った空の下、Sacramento International Airport に降り立った。80年代後半の当時、まさに日本の <Japan As No.1> 絶頂期。世界一の半導体生産をその地 Roseville で現地消費地ローカル生産として、世界でトップレベルで一手に担う、米英アジアの3極体制だった。これが一時期、世界のDRAM市場を席巻した日立・三菱電機連合やNECのDNAを継承する今のエルピーダメモリルネサスエレクトロニクス2社の前身なのでした。
 ローカルコンテンツ(現地調達率の向上で現地経済に社会貢献すること)に一役も二役も関わり、米国製半導体設備メーカーであるVarian、Applied Materialsなどから設備の保守部品をその工場で自分が調達し、日本へ輸出供給をしている、という社内ビジネスの一翼を自ら遂行する、気概・生き甲斐とやり甲斐の3拍子が揃ってたこと、昨日のように思いだします。
・・・実際の日々の仕事は、とても暇で。何もやることがないときがむしろ多かったのだが・・・。業務経験と言うよりは人生経験を積んだ、という方が当たりの5年間でした。

 そしてSacramentoでは Oragevale郡 に住み、片道30分を車で朝夕通う毎日が始まったのです。そして。4年10か月。当時の部からいっとき抜擢され「?」、指名されて初めての海外赴任。現地生産工場へ放り出されたのが今のキャリアの多彩な?変遷の端緒、始まりだったかもしれないと。。今、そう思うわけです。
 その後、紆余曲折を経て、多彩な企業業務経験をアチコチの部署に出たり入ったりしてやってきました。雑用ごとも含めて、いろいろな仕事・・・東京からの米国視察ツアーの販売代理店御一行様の工場見学のご案内から、現地へ赴任してくる日本人社員の就労Visa周りの人事総務的な手続きに関する工場トップとの「連絡役」まで。そして、カリフォルニア地震のときには被災状況の広報・本社への報告まで・・・、実に本職の購買とは何の脈絡も関係もない、さまざま多彩な仕事を都度、任され(というより他に誰もできないので自然とやっていた)、大きな主流的な流れも何もない中、言われるがまま発生する都度、もっとも下っ端としてナンデモ経験をしたものだった。それが財産と言えば財産。
 よく言えば「幅広く」現地駐在員として、広い視野をもってナニゴトも真摯に行い、工場生産オペレーションには購買、国際生産管理を通して日々直に関わった。幅広いと言えば幅広い。自信があるといえば相当ある。だが、中途半端と言えば、これほど中途半端なことはないと言ってもよい。中小企業のワンマンオフィス的なナンデモ経験と多彩な経歴の結果はどうだったか。自分ではうまく評価ができない。とても器用貧乏な人間が出来上がった気が今はしているというのが本音か・・・。(むろん、単にそれだけではない、私なりの矜持も持ち合わせてはいるのだが)

 さて話を早巻きしよう。1992年4月、日本に戻ってから、5年間。出身元職場で一応の本社中枢にいた。それなりに管理職として、何とか全社レベルの政策立案や海外調査などにも数回ミッション参加したりした。役員の重役会議発表材料を下働きで作成したりで随分と活躍もした?が、要するに管理職の最下っ端ってことだった。
 そこから2度目のお勤め。で、再度アメリカへ行けと命じられた。次は一転して東のボストン行き。途中、シリコンバレーに転勤引越して合計5年半。2002年10月に日本に戻って。とうとう今年秋で丸10年の歳月。 
 その時の国際部門の部長と、同じ時期に海外(一人は翌年イギリスTelfordへ、一人は一年前から業務研修でそのまま延長でオレゴン州Portlandに。そして私はカリフォルニア州Roseville)これら海外駐在(生産工場)に出た3人。六本木7丁目のオーシーザブル AUX SIX ARBRES で再開して当時の部長と会食をした。
*オー・シーザブルについて-1
 店構え
*オー・シーザブルについて-2 
…(引用)「マダムも非常に親切でここで食事をするのはずいぶん特別な感じがする。味もさることながら雰囲気と特別感を味わうお店だ。」・・・ まさにその通り、この店にはぴったりのコメントだと思った

 80年代後半当時、働き盛りの40歳台で文字通り、「騎虎之勢」オーラを放つ超有名部長だったKMさん。そして私はこの日では、たぶん部署において出張で5大陸を制覇している数少ない人間だったかと思う。あとの二人は欧州(UK)駐在経験がある。地力も経験も知識も、そしてノウハウも優れている。
 しかしむろん、5大陸すべてに「行っただけ」で彼らに優越していると自慢できることは何もありません。唯、そういう機会に恵まれ、そういうときにその場にいた。南ア、ブラジル・アルゼンチンに出張に行けたという過去の遺物でしかない。特段、抜きんでた能力があるわけでもなく、ポジション的にいま恵まれているとは言えない自分にとっては、でも立派な「小さな過去の勲章」なのかもしれない・・・。別に自慢、ひけらかしたいというわけではない。事実として受け止めたかった過去の栄光の日々の確認作業。ただそれだけ。 
 海外生活や海外出張経験が多いメンツならではのこの日の食事チョイスとワイン。ハードリカー、そしてデザートも決してスキップせずフルに戴きますよ(笑)・・・というユニークな男性4人の会ではあった。
 オー・シーザブルの料理は高級の極みで。MKさんの事前特別のはからいで、いくつかアントレメニューをとりまぜて少しずつ戴ける、という奇特なご配慮もあって。カスタムメードの料理フルコースとは相成ったのでした(深謝)。
 マダムの接客やトークは上品さはむろんで、「上質な」という形容がぴったりだ。20名ほどが入れる、居心地の良い上質空間に、昨夜は幸いなことに客が2組しかおらず。静かに、そして ゆ っ た り と 至福の時が流れていた。重厚な赤絨毯や椅子席のフカフカ度が店の格式と歩んできた我々の24年間の人生を体で感じさせてくれた。 
 厨房入口やワインセラーを見渡せる、中央の壁を背にした座席から左手に見えるエントランスの外は、初夏の東京の夕暮れ前。陽の光がまだ明るい。まるで我々が時空を超えて、ロンドンの街角レストランにいるかのような、心地よい錯覚を与えてくれた。実際、そういう会話をした。大先輩であるM部長を囲んで、元海外優等生たちとして、とても心地よい酔いが回った。(酔い過ぎて会の終わりかけに思わずシャックリが出てしまった:苦笑・失笑・失敬!! そのような背景と事情があり、本当に真に格別な思いがしたものだった。素晴らしきかな!人生って。
 24年間/25年前に本社部門に異動転勤して、わずか1年間しか部下でいなかった私のような未熟者。人生をこの会社とその方達に、囲まれて揉まれながらも、なんとか今日まで無事に生きてきた。海外では11年間を過ごし、5大陸に出張もしてきたが一度も危険な目に遭うことはなく、安全を保ってきた。そして、今こうしてようやく東京・六本木で高級格式のこのようなお店に来られるようになった。いっとき感慨がなかったかと言えば嘘だろう。
 
 想えば、海外へ足を一歩踏み出した、右も左も分からなかった田舎の若者だった20歳代最後の29歳と5カ月の「僕」。。 〜あれから〜 と て つ も な く 長 〜 く、物理的な移動距離も長い、4人それぞれの、24年間が経った。過ぎたときは取り返せない。
_いったいぜんたい自分が成長したのか、成長しないのか_、そこもよく分からなくなる。人の性格・話し方と言うものはおおむね、変わらないものなのかもしれない。自分だけ、育ちの差が出ていたように会話の中で恥ずかしくも感じていた。人は、どうしても育った環境とか躾、と言うものが体から滲み出るもの。ただ、話題は年代・格式にふさわしい、それなりのレベルにはなっていたかと思うのだが・・・。
 

 1987年6月の駐在赴任直後、人生で初めて購入した左ハンドル車の、匂うようなガンメタリックカラーの新車フロントシートに身を沈めてた。すべすべのステアリングホイールを、乾燥した両の手で握り、北上したWatt Avenueから、インターステイトハイウエイ80号線東方面に乗って。Sacramento 市街地から、Roseville へと、滑るように、滑らかに、飛ぶように、車ははI−80を東に向かう。
フロント正面。ガラス窓の向こう、遥か遠くには、冠雪している Sierra Nevada の山並みが直に目に入り、きれいにくっきりと見渡せる。澄み切った北カリフォルニアの朝の新鮮で乾いたおいしい空気。そうして、まっすぐに、前を見て、しっかりと、振り向きもせず、一途に疾駆するのだ。そのとき、FMラジオで初めて聴いた、美しいメロデイーラインのコーラス、Atlantic Starr の、Always をよく聴いたものだ。まるでテーマ曲であるかのようだった。
当時は、歌詞も分からず意味も知らず。今となってはその曲にあるような、よい家族に囲まれる、平凡で幸せな人生がなんとか築けたのだろうか…?と、これまでの来し方を振り返える。・・・87年のあれからもう一度97年のアメリカ生活に入り、東西両海岸、ボストンとシリコンバレーでの生活スタイルも経験させてもらった。合計で11年半の米国生活をさせてもらった。
予期せぬ歌に託された願いや想いは、おそらくは我が潜在意識の中、注意深く、陽の光を浴び、すくすくと育ったのかもしれない。たぶん、やがて成就したのかもしれないなと。そう思えた。
前の晩。近づいた台風の影響による強風の中、真夜中に、うつらうつらの意識の中、脳だけが覚醒していた。直感が走った。「そうか、そうなんだ、」
 これからは自分自身の夢を追いかける。もっともっと、もっと自由に。。 縛られることのない、生きられる限りの生を。29歳の僕が、今の私になり替わって。「もう一度チャレンジする人生を精一杯生きていってみたい」と強く強く、我が心の中で念じつつ、想念の中で想っている。

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