- 日本経済新聞朝刊の最後尾36面(文化)「私の履歴書」は連載もので長年にわたり続いている。普段ほとんど目を通していないのだが時折、内容により読む。それが、
- 1/29に(元財務次官)武藤敏郎氏28回目の連載記事が掲載。「五輪1年延期」コロナ禍で安倍首相決断、森組織委会長まさかの辞任、だ。
- 2020年3月12日から始まり1年延期に至った重大な決定の事実がオリパラ組織委員会事務総長武藤氏談により詳かに語られる。
▶︎森元首相が自らの舌禍事件で辞任。後任に当時五輪担当大臣の橋本聖子氏が就任。大臣を退き、中立を重んじて自民党も離党した上で就任したその経緯である。興味深く読んだ。(ここまでX投稿を少し編集して転載) - ここからは個人見解だが…。
海外で11年仕事し、交渉や調整をそれなりに多く行なってきた。向こうで生活し、特に米国メディアでの討論など、コミニュケーションの実地の場面を見聞きしてきた経験、また自らの子らが学校でどんなディベートを行なっているのかに照らして、いま思うところを書きたい。
(日本の) 政治や行政などその重要な意思決定の際のこと。ややもすると、なぜそう決めるのか、その重要な意思決定の大元にある "考え方" ( 理論や理屈 ) がきちんと表明がなされていないのではないか。大元の理由付けやその背景説明(責任)が十分に尽くされていないように感じる。
具体的な例を挙げよう。今朝、今国会前にあえて開催された衆議院予算委員会。そこで政治資金規正法がらみの岸田文雄首相 対予算委員である野党所属衆議院議員とのかなり厳しい、突っ込んだやりとり、応酬を聞いた。質問と答えの応酬が段階を経て、それなりに積み上がる。だがしかし、両者考え方の根幹にある『なぜそう考えるのか』「そうあるべき」の理由説明がほとんど語られない。ごく一部の論客は、はじめに前段で前置きとしての理念的大義を話すので、これなら理解できるし評価もできる。
(誤解を恐れずに直言すると) 決める、あるいはそう返答する際にその元になった根本の考え方を示さない。その流れなので、その返答や考え方の大元、理由付けは正しいのかそうではないのか相手のツッコミも従って出てこないのだ。質問者は自分の主張をぶつけるだけに終わりがち。いわゆる『平行線』、すれ違いの議論だ。結果的にQ&A応酬は浅薄。表面的なものにとどまっている。質問者は言いたいことを総理にぶつけて、いわば『批判していうべきことを言うだけ言った』ことで終わっている。
このことは他のさまざまな議論の場面を見聞きしていると結構な頻度で "日本には多い" ことがわかり、いつも気になっている。
欧米のディベート文化になれ育ったメンバーの侃々諤々の応酬は、結構な深さで議論が尽くされているように感じられる。一方、日本の場合、議論は情緒的で表面的な、表層にとどまっている話し合い、その程度の人が多い気がしてならない。
まぁ最近は中身が深くかなり突っ込んだやりとりも聞かれるようになった、良いことだとは思っているが、まだまだ日本はメディアに出てくる討論場面の議論が表面的にとどまることが多いと思う。
- 👉この問題は、おそらく幼少期・生徒時代の早くから実地のdebate訓練をカリキュラムに導入することで、ロールプレイを行う。あるいはまた現実に生の討論を当たり前としてクラス会で励行する。
- ◉ その際に、(批判や非難でなく) 個人の思いとは切り分けられた "意見" なんだ、としてお互いが冷静かつ理論的に "口で闘う" 闘論まで高めて、双方向の理論対理論を何度か経験しておくべし。
それをやらないと、この日本の政治も社会もまだまだ伸びしろが多過ぎて、なかなかよくならないのではあるまいか、と思うのです。
📖 『安倍晋三回顧録』(中央公論社) - Andyの雑記帳blog (andy-e49er) @Accurasal
選挙権ある国民の一人として可能な限りの機会をとらえ政治と社会、この国の政治と行政の実態と事実、意思決定者やその裏にあるかもしれないフィクサーに関わる説明、動機、実態など知っておくべきだ‼︎ と考える。引き続きチェックしていこう