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『マイホーム山谷』末並俊司

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blog副題 : ノンフィクションから知る未知の社会

なぜ選んだのか。『マイホーム山谷』

 うっすらとした読もうと選んだその時の気持ちすら詳しいことは忘れた(笑)が、今『マイホーム山谷』末並俊司(小学館という一冊のノンフィクションを読んでいる。"さんや"である

◉ むろんのこと (あえて記すが、) 人間に上下はない。日本国憲法が人として最低限の生きる権利の保障をうたう。生活保護は仕組みとして存在する。

『路上生活者』『ドヤ』… 人それぞれ、生きる上での住処はさまざまだ。いろんなことが誰の身の上にも起きる、(日本は共産主義ではないから)結果的に生まれ育ちとか、受けた教育とか、仕事の経歴などなど、それぞれの個人事情に左右された『格差』が存在している。現実に。

自由ってなに?平等ってありうるの?博愛精神はどんなこと、誰がもっているの? 愛?

◉ 山谷に流れ着いた人それぞれに事情があり、皆、日本国民であることにもなんら変わりはない。特に、台東区の ”山谷” と呼ばれる地区は昔から自分の頭の片隅にずっと存在がある/あったけれども、訪れたこともなく、その機会や動機も持ち合わせず、単純に全くの未知の領域。知らない場所であることに他意もなし…

(ちなみに、私は中二の春に千葉県のベッドタウンの地元からとある理由から住民票を寄留しての越境入学で東京は下町の中学校に転校。今はもう廃止されて無くなってしまった浅草橋の『福井中学校』(昔は福井藩の藩邸跡の土地)を卒業している。山谷地区は学校からは近くないし、方向も異なるから行ったことも、そこらを通ったこともないのだが、)同じ区内に存在するとなんとなく知っていたから気になっていた存在ではあるのだ。

流れ着いた、という点で共通な事情があるのではないか、と、この本を読み終える今になり、この部分を編集しながら書き添えている最中に『いま気づいた』。

『この年齢』…つまりはこの本に登場する山本さんという主人公に近い歳…になって、

 なぜかしら、いつかはこの地区を歩いてみようか…(いゃ行かない方がよいかもな、とか、)あれやこれやを思ったりする 山谷(とか旧・吉原など)

今は住所地の正式な名前も消えた、昔の通称の “街区” は、自分の頭のまさにごく片隅にずっと眠ったまま、長く残り続けてきた。

素直に他意もなしに、知らない・行ったこともない。だからこそ、そこが(自分はおそらく天の邪鬼なので)どうしても気になるのかもしれない。

◉ この一冊のドキュメンタリー、ルポルタージュ(人助けとか互助について、福祉について、看取りを)知る。母を看取った自分の心にダイレクトに刺さると思う。そして世の中にいろいろな社会の物事と物語がある。それらを書物により知る。知ることが大事。

生身の登場人物を追った著者によるルポルタージュだからリアリティがある。

自分が単に知らないこと、特にそれが社会の話だから触れることにある種の充実を覚えるという意識もある。

だからこそこの本を選んだのかもしれない。

 山谷は労働力として全国から集まってきたよそ者たちを受け入れ、さらに彼らを支援するために集まってきたよそ者たちをも受け入れた。外から入ってくるものを拒まない山谷の性質は、医療や福祉の浸透を助ける上でも大切な要因となった。労働者の住むドヤやアパートも、訪問してくる医師や看護師、介護ヘルパーたちをすんなりと迎え入れていった。(中略)

 各団体には得意分野があり、それぞれが互いの特徴を知り尽くしている。こちらで発生した問題が、あちらの施設で解決可能となればすぐに繋げる。いちいち行政の指示を仰ぐことはない。民間の団体同士の連携が確立しているのだ。

末並俊司・介護ジャーナリスト日本大学芸術学部を卒業後、97年からテレビ番組制作会社に所属し、報道番組制作に携わる。2006年からライターとして活動。「週刊ポスト」を中心として、介護・福祉分野を軸に取材・執筆を続ける。本作で第28回小学館ノンフィクション大賞受賞

人生には己が知らないことの方が多くこうして自ら前に向き合い学ぶことは多い。尽きない、と言った方が正しいだろう。

 福祉とか、人助けとか、看取り。 

 あなたはどうですか? 

両親とも亡くし、今でこそ時間的な余裕、心の余裕も持てる様になり、”知らないことを知る行動” を増やし始めた。それは自己の内面と向き合う、そんなことなのかもしれない。

◉ このブログ投稿の最後に少し長くなるが、この本の終章 "マイホーム山谷" から、書き抜いて引用しておこう。

 誰かの為を思って施すことで感謝され、それが喜びにつながる事はある。誤解を恐れずに言うと山谷のシステムは、そうした奉仕の精神や善意といった、ある種不確かなものに頼ることで成り立っている。山谷のような成り立ちを持つ街でなければ成立しないシステムにも思える。高齢化がさらに進む今後の日本が乗り越えなければならない課題は、この不確かな部分にあるのかもしれない。

 そんな話を山本さんに向けると、彼は次のように答えた。

 「それはその通りだと思う。僕はこんなふうに考えているんだ。

 社会の最小単位を家族とすると、ここには資本主義の論理は入ってこない。親が子に行き方を教えるのにお金を取ったりしないだろう。だから家族は基本的に資本主義とは手を結ばない。その次が村落共同体なんだ。この場合も助け合いの精神でやっていくことができる。いわゆる互助と共助だ。ここにも資本主義の精神はない。これより大きくなると都市とか地域共同体になる。するとここからは資本主義の世界なんだ。だから地域包括ケアといっても、資本主義のベースで考えないと破綻する。でも山谷の地域包括ケアは資本主義からはみ出してるんだと思う」

 「その資本主義からはみ出している部分って何でしょうか?」

 「多分、愛なんじゃないかな」

 サラリと言った。

 愛なんて、最もいい加減で不確かなものだ。

(最後に)この小ぶりの本一冊に書いてあることは人の生き方死に方に関わって深く、生々しい。人間らしいとも言える。

  • 経営とか法務、税務や会計学なんかのマネジメント理論や堅苦しい理屈、数字や目標なんかで置き換えの効くような類のものではない。

だから途中ずっと書かれてきた「きぼうのいえ」の設立経緯とか、NHK・プロフェッショナル仕事の流儀の番組で取り上げられた表の話だけに留まらない、実情や実態のこの記録をきちんと全て繋げて読まなければ本当の理解はできないだろう。

  • 一冊丸ごと読めば分かる。

私の感想文はここで終える。

少しでも興味を持った方はこの本を実際に手に取っていただければ私の感じ取った、大切な、尊敬に値する、感動もあるが辛くもある "人間らしい心象風景" をきっと共有していただけると確信している。