ときおり人生ジャーナル by あきしお ⁦‪@accurasal‬⁩

ときおり人生の思いを綴る雑記帳|andy-e49er | ID-Zerv 2b trusted @Accurasal

読書を続けて名言探し…『イッツ・ダ・ボム』

 ソーシャルメディアだけに頼らず、物理的に本という書物を通じてより深く考えることの大切さをここで再考してみたい。

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(申し訳ないけど、『前座』)

✴️ ついこの間、読み終わった、『イッツ・ダ・ボム』(井上先斗)はこの著者の初作品だという。処女作にして、なんと松本清張賞 受賞した作品!…というので、ワタクシ清張大好き人間としてはとっても期待。ワクワクして読んだけど。正直 私の趣味には合わず。(どこが松本清張の賞なのか⁉️と)期待はずれの一作だった。

  • Instagramフォローしたりして、また日本の有識者のコメントも見てるし、見慣れたあのバンクシーの活動と成果をリアルに想像させることも全くなかった。

とにかく読み終えた。

書評にあったと微かに記憶するラストの切り替え?ドンデン返し?的なストーリー。あっ!という程の凄い刺激も少なく想定内。読者が簡単に想像できてしまった終わり方。えっ?大したことないじゃん、だった。表彰した方の人たちはバンクシーのことに思い入れが強すぎたのか。理解できない。本の内容を失礼ながらディスるわけではないのだけれど、これが一読者としてのまっとうで正直な感想である。

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✳️ 次、これから読む本。未知との遭遇
出所 :「しぶとい十人の本屋」- 生きる手ごたえのある仕事をする (著者 : 辻山良雄)…から

  • その「はじめに」のパートから、気に入ったので抜粋引用するのが、こんな一節だ。

「思うに人間は便利な社会をつくったけど、それで幸せになった人が増えたかと言えばそうでもない。むしろよのなかにある幸せの総量は減っているというのが、いまを生きる多くの人の実感ではないでしょうか。あまりに便利すぎるよのなかでは、生きる手ごたえというものが、人から逃げていくのかもしれません。」

なんだかネガティブな話。だけれどすごく同感するし、強く共感を覚えるのだ。こうもある…

(表題) - 人にしかできない仕事 -

出所: コラム 旅の合間に 2 から

 そして本は、商品であると同時に、読者の一生を決めてしまうかもしれない可能性を秘めた <爆弾> でもある。

(途中省略)

 小さな本の世界で扱われている本は、妙に大きかったり少し小ぶりであったり、その一つ一つには規格外でヘンなところもある…(途中省略)…だがそれでも、ほかでは見つけることのできない固有性を宿している。なんというか、とても人間臭いのだ。

この一冊は、ある本屋さん(著者自身)が本屋の人たちに会いに行った、話して来たことで構成される。

  • どうやって個人の書店を継続させて来たか
  • 本という特別な「もの」についての各人独特な思想についての思索的な双方向会話で構成する
  • 随想的な旅を含むインタビュー、あるいは
  • ルポルタージュというべき九つのドキュメンタリーの積み重ね記録だ

考え方が思索的であり、liberal artsの世界。本の中では、人文書などといっている。小説などとは違う世界のようだ。

私など平凡なサラリーマン稼業の世俗にまみれた人間には、至極心に響く、感覚を打つことばの塊を与えてくれる。

 正直に言えば、いま単純に数のことだけを考えれば、紙のメディアよりもウェブメディアのほうが、多くの人に読んでもらえる可能性が高く、ダイレクトな反応も届いてくる。それは歴史や信頼性とは別の話で、それぞれのメディアとしての特性なのだと思う。

 しかし、タダで、簡単にアクセスできるものには、それ相応の落とし穴もある。

「往来にあたたかそうな焚火がみえる。ちょっと寄っていって暖まろうと人が集まる。あたたまったら去っていく。それで十分。焚火はそれだけのものだ。でも焚火を絶やさないということも大事だ。立ち寄り去っていくひとが、一本薪をおいていけば火は絶えない」奈良俊行氏

鳥取県は、JR山陰本線松崎駅近く、東郷湖のほとりに立つ自ら改築・増築をくり返した「小屋」で営業している本屋、定有堂書店・店主 奈良俊行さん、公立鳥取環境大学で文章作成の非常勤講師も務めた)

出所 : 『しぶとい十人の本屋』生きる手ごたえのある仕事をする(辻山良雄著)の中から、その 8. 「鈍」で「素人」な四十三年からの抜粋、引用。

さて

✴️ ここから先は、心に響いたことばを手間暇かけてこのブログに書き綴ることより、この一冊【『しぶとい十人の本屋』生きる手ごたえのある仕事をする(辻山良雄著)】で、語られるそれぞれの人と会って話す各場面で登場し、「注釈」として紹介されているを気になった限り列挙しておこう。この機会に一度に読むことは難しい。だが、このメモをいつか辿って、自分にもっと時間ができたとき、ここに帰ってこれたなら、と。

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『千年の読書』三砂慶明誠文堂新光社(注釈から抜粋)「食」や「仕事」、「死」といった、人生と密接に関わるテーマが掲げられ、それに沿った本が次々と紹介される本。本を読むという行為の終わらなさを伝えているようでもあり、読書欲をかきたてられる。

『読書会という幸福』向井和美 (岩波新書)

翻訳家。彼女が学校図書館司書として生徒たちの読書会を助け、自らも30年以上にわたり読書会に参加し続けた経験を綴った著書。

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⤴️一昨日(1/16) 職場の新年会としての、赤坂Marukoshi (神戸のネギ焼きとかのお好み焼き、鉄板焼き居酒屋) で唯一撮影したネギ焼き。

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ここで話をガラリと変えて、あえて全く別の次元、本を読む行為とはある意味で対極にある運動。スポーツの凄さ。その現象から考えた心のありようということを確認しておきたい。

話は直近書いた高校サッカー選手権大会決勝戦の同じ話だがその角度を変えておく。

2025年1月14日の朝刊に「PK戦 9対8」で決着のついたリアル記事の掲載から思った感想。

(前略) 持ち味をことにしながらも力の拮抗した両雄の頂上決戦は、PK戦も10人目までもつれた。(途中略)決めれば優勝と言う1本。力みなくボールを蹴ってゴールネットを揺らした。

「普通は10番目まで回ってこない。自分が決めたら勝ちというのは何か『持ってるな』と思って。意外と平常心でやれた」。

『持ってる』って言い回し。昨今よく使われることばになった。誰が始めたのだろう、この言い方。運を持っている、それは自分だ、という自覚。決勝点をゴールに蹴り込んだ選手がいる。対して予測が外れ逆方向へ体を飛ばして地面へ転がりこんだ相手キーパーがいる。勝ちと負けの確定。それはそれぞれの人生にどう関わるか。

人生で大切なことは、間違いなく何かの勝ち負けとは別のところにある。(それはこの項で前に述べた『生きる手ごたえのある仕事をする』ことを通じての、個々それぞれの "考え" と "行動" の差異の中に静かに built in (埋蔵) されている。そして気づいた者だけのものになる)

あのとき敗者になったゴールキーパーは敗者代表として人びとにイメージされ記憶に残ってしまいがちだが、しかし、そんなことはいっときのフロー。だから時とともにどんどん薄れる。聴衆は個人の名などあっという間に忘れる。

だがそれを一生忘れないのは本人だ。

だから彼のこれからの生き方に想いを馳せる。蹴り勝った選手に君は人生で負けてはいない。ゲームはゲーム。これからの人生の助走期間のたった一コマに過ぎない。だからこそ決勝で敗れた相手チームと決勝点を蹴った相手に気後れなどしてはいけない。心で負けず、自分の力を信じて、ぜひこれからの前を向いて欲しい。

この文章はまだ書きかけ、書き下ろしで、これからブラッシュアップします。