SONY αのWebサイトから
🇫🇷フランス大会の最終ゲームの早朝3時半に起きた。リアルタイムの心情は投稿の最後に。
カメラといえばその Nomber 1 は昔 Nikon (ナイコン、日本語読みニコン)、次いで Canon だった。けれどもネット時代になり、SONYがミノルタからαを獲得。その後は着実に進化を遂げエレキの強みを発揮してきた。業界地図は大きく様変わりした。
オリンパスは医療器へ、かつ光学事業を手放すなど製品ドメインと保有テクノロジーが変遷してきた。
ミノルタはコニカとくっついて、コニカミノルタになり、今はどうだろうか。
(日経新聞11/3 (金) 14面記事から)
コニカミノルタ最終赤字が縮小、4〜9月、44億円に。事務機事業など回復
記事あり。売上高は前年同期比4 %増5527億円、営業損益は7億8500万円の黒字(前年同期は51億円の赤字)。販売数量の減少や人件費の増加などが利益押下げの要因。
一方生産コストの削減(39億円)や構造改革効果(26億円)、航空輸送や物流費の減少(71億円)などによって黒字転換につなげた。
オフィス向け複合機器事業。
企業パーパスとそのビジョン・ミッションで各社経営の方向感も全体の姿すら時代の流れの中でそれぞれが変わって行く。生き残るために必要。
パラダイムシフトでとても有名なのは(旧) 富士写真フィルム工業だろう。いまは富士フィルム。
- 現像する写真用感光紙や写真フィルムという主要製品の化学工業から一大転換。アナログの銀塩フィルムがデジタル化によりほぼ完全に無くなり、そのせいで売り上げが急に激減。
だがその後、見事に医薬品など持てる化学的製造技術を元に新たな事業で生まれ変わった。
今やDX, ソフトウェア、半導体、systemとソリューションの闘い。
いま、映像ショットは全てスマートフォンで。
✳️ ところで。Konicaと言えばそれはブランドネームで、社名は "小西六写真工業" だった。大学硬式庭球部の3つ上のM先輩が経済学部出身。入社ほどなくNYへ社費留学してMBAを取得。日本に戻って経営企画、事業計画部門の経営中枢にいらした。それで自分の就職のときに話を聞いて同社を受験した。途中別の銀行の引き止めにあって面接時間に間に合わなくなったトラウマ的なドラマに見舞われた。しかし電話で人事部に真摯に説明の結果、リスケによる再挑戦(採用面接) を認められた。結果は…最終役員面接で一つの答えにミスって落ちたが。
全くの結果論だけれども、後付けで考えればこれは幸いしたのかもしれない。その後に決まった別の会社での長らくの勤務では、良かったことの方が多かったから。あの時すんなり受かっていたらKonica。その本社のあった新宿側にもっと馴染みができたんだろうなと思うし、そこでは今と全く違った人生を歩んでいた。結婚すら変わっていたかもしれない。だがもしもはもしもに過ぎない。
その後は、勤務が田町・三田ということで、住む場所も含め北より西の方角に我が人生が決まった。だからいまここにいるのも全てここに至る道のりの結果。そんなことを妄想してた。
🏉ラグビーW杯決勝の激戦が終わった。早朝6時半前。気がつくと、なんとmorning shower、西の空にうっすらと虹が見えた🌈
カメラとレンズを通して、世界につながる映像や報道のリアルな世界。われわれが遠くにいて知る、とても哀しいこと、厳しすぎる現実が今この瞬間にも、彼の地では続いていることが心にこびりついていて、とても残念だ。
昔、好きだったサイモンとガーファンクルの、ポール・サイモンの一曲。その歌詞のフレーズのひとつひとつが心に刺さり、胸に迫る。ぜひ一度聴いてみてほしい。
Silent Eyes (Paul Simon)
https://youtu.be/-_FzOHh0e_k?si=bn8GMylPlZVMHerS @YouTube
そして、一眼レフの話とかなら。こちらへ👇
人生ファインダー、37年間の積層 - Andyの雑記帳blog (andy-e49er) @Accurasal