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◇ベイエリア生活(2000年夏〜2002年夏)


 米国勤務時の話。オフィス外の私生活で言えばボストンから転勤引越しをして今。丸二年間が経過してようやくここシリコンバレーで周囲に溶け込み、ほんとうの友人が出来そうになってきたところだが、皮肉なもので帰任することになった(2002年10月)。通常4〜5年間をひとつの土地で海外駐在すると見込んでいれば、結果的に途中で転勤し東海岸から西海岸へ「入場」した自分としては、真剣に誰か友人を見つけ、私生活を充実させ、ストレスを発散させようという動機がなかなか起きなかった。余裕もなかったかもしれない。私にとってアメリカでのプライベート生活と言えば同じカリフォルニア州でも、サクラメントやローズビルのより素朴な土地での、87年から92年の20代末期から30歳代の若く、もっと楽しかったころのイメージ・記憶がより鮮明だ。

 ベイエリア、とりわけシリコンバレーと呼ばれるこの土地は競争意識が極めて強く、実際のところ競合他社が南北40〜50マイルの範囲にひしめく。 競争環境の中にあって、自らも否応無しに経営構造改革(リストラ)に手を染めて、多分そんな気分でもなかったろう。 またボストンには未練があり、子どもたちも5歳と1歳で赴任したので子育てと言う人生で楽しく充実した大きなイベントの真っ最中だった記憶がある。


松坂ダイスケのBoston Redsox 優勝パレード
 ボストンに残してきたプライベートの友人・家族ぐるみのお付き合いも多かった。 真の心は、心から交流が出来て楽しかったボストンの地に置いたまま、西海岸への単身赴任を余儀なくされたような、心と体を引き離されたそんな妙な感じではあった。一方で家族はと言えば、すぐにこちらでの学校の友達も出来て、なんとか無難に仲間入りを果たした。東よりは温暖な気候の中で、明るく楽しい生活を送れたのでほとんど不満など持っていないようだ。
 ボストン時代には一度もしなかった休出。ここシリコンバレーでは幾度となく休日出勤で仕事した。 その方がマイペースで予算の数字作りなど没頭・集中が出来る。 冬が長くて暗いボストンの土地では休日に暗く不気味な会社へ一人出て行くことは全くもって考えられなかった。 
 西では逆に明るい太陽が照るドライな気候の中、プレゼンテーション資料作成などのため金曜の夜とかでもお構い無しに長時間居残り、一人キュービクル(仕切られた執務スペース)で構想を練り上げたりしたものだった。 まさに自分の責任でこの組織をよりよくしていこう、次の一手はこうしようとあれこれ策を巡らす日々。これは決して苦痛でなかった。 むしろ裁量の幅が大きく仕事はとても充実していて楽しかった。 成長の実感も持っていた。
 冬のボストンでは決して考えもしないような深夜残業、徹夜でも暖かい気候と乾燥している道路で、家まで車で15分のサンタクララでは何回でもこのような深夜残業や休日出勤を行なうことができた。会社が好きだったというより一緒に遊ぶ相手もいないし、シリコンバレーでは皆が会社の接待や仕事漬けで余裕がないのだ、と自分で納得し言い聞かせ、楽しいことから背を向けていた。 リストラの罰(経営責任の一端)とでも言わんばかりに?自ら苦しいこと、孤独に何かに没頭したかったのかもしれない。 あるいはボストン時代からの、ひとりで考え行動する癖が抜けなかったということだけだったかもしれない。
 不思議なもので人間はないものを追い求める習性があるようだ。 寒くて寂しいボストンでは友人達との温もりで仕事と孤独のストレスを癒すことを切に求めていた。かたや気候が温暖で暮らしやすいシリコンバレーにあっては生活面の不安やストレスがほとんどないため、躊躇することなく仕事に没頭できた、ということになる。 ともあれ会社のこと、自分の東西の職場を考えるのがなにより一番の優先順位だった。 ローカルコミュニテイにおいて家族それぞれの世界でそれなりにちゃんとやっていけた。私の特別な世話が要らなかったということも大変ありがたかった。二度目のアメリカ生活で家計や学校のことを切り盛りしてくれたPartnerの力に負うところが大きい。感謝したい。

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