Andyの雑記帳blog (andy-e49er) ⁦‪@Accurasal‬⁩

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遠い風景 - あの日あの時 - 南アと西欧

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☝️は3年前(2019/1)プライベートのロンドン旅での自撮りの🤳一枚。思い出に生きるのも時に大切です。今回は昔話をします。

 写真の彼(Peter)とはこの時まで相当の年数が過ぎ何年ぶりかで劇的に再会したものです。普段自撮りなんかしない私が珍しく撮りました。彼の「その後の」去就が全く不明。ロンドンに旅立つまで連絡しておらず。前の会社を辞めた彼とはそもそも直接の連絡方法もなかったのです。ロンドンに着いた後に共通の知人から彼に連絡が取れて、急遽会うことに決まったのです。

彼はvisitorである私の利便を考え投宿ホテルの駅近くまで来てくれました。この時会えてよかった。ロンドン近郊ベイズウォーターのパブで🍺を英国式に順にオーダーして飲み、しばし旧交を温め話しました。

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 彼との一番の思い出。あれは 1993年だったか。私は半導体現地一貫生産工場(米国加州Sacramento)での長かった5年間を終え、92年日本に帰国しました。元の部に主任として帰任し、そのあとすぐに課長に昇格。そして帰任直後のグループから一年で部内異動。新たに海外プロジェクトグループの調達責任を担っていた2年間の頃でした。

以下記憶を辿ります。

【South Africa】南アフリカ共和国

 🇿🇦 Cape Townで現地サプライヤーとプロジェクト調達の売買契約交渉を数日間行った。

首都プレトリアから ヨハネスブルグへと移動して行った。なぜ二ヶ所に行ったのか? たぶん現地メーカー視察と、契約交渉は日本商社の仲介で別の都市のオフィスで行ったからでしょうか。残念ながら忘れました。

交渉はLondonから来ていた先輩の駐在員と行ったのですが、海外で英語会話での契約交渉は私には初めてのことでした。(それまでは半導体工場で生産系の会話中心)

契約交渉Duty を無事に終え、次の目的地はスイス。この南ア出張に別出張をくっつけ、アフリカからヨーロッパへ転戦するため、その週末はケープタウンで過ごすことになった。海に面したホテルはリゾート地のようでした。わずか一泊は残念でした。移動は日曜だと話しました。

すると取引先の人が土曜に夫婦でなんとTable mountainを案内し連れて行ってくれました。あの🚠ケーブルカーの急峻な切り立った崖は日本では存在しないと思います。凄い崖でした。

一足先にLondonベースに帰った先輩とは既に別れて、日曜に右も左も知らないケープタウンの空港から1人初めてのスイス航空に乗り、アフリカ大陸をあとに欧州目指して北上したのでした。

【ヨーロッパ・ジャッキ・サーベイ93年

 日曜に到着した🇨🇭Zurichを皮切りに、翌朝(月)から🇨🇭スイスメーカーを手始めに仕事に取り掛かる。このとき 🇮🇹、🇦🇹、🇩🇪、🇩🇰、と五ヶ国を一週間(実働五日間)で回った (業務出張とは言え、かなりの強行軍)。毎泊異なる国の見知らぬ街に行き、日中はsupplier訪問とこちらの要望の説明。毎夕には国を跨いで移動の連続ではありました(忙しすぎて記憶が曖昧)。

英国London🇬🇧しか行ったことなく(いや、行ったのはこれより後か?記憶曖昧…)

AfricaとEUROPE、全てが初めて、でした。

【Portuguese】94年

🇵🇹 鉄塔発注先は、中規模の地場『鉄工所』でした。そこに価格交渉 兼 受入検査で出張したのはこの南ア〜西欧サーベイの後、翌年でしたか。リスボン郊外の中規模の鉄工所をロンドン駐在員(南ア出張の同じ先輩社員)と共に訪問。

すると、残念ながら設計したMマネジャーの図面通りには「仮組み」が出来ないことが判明。ボルトの穴位置が間違われていたのです。

やむを得ないとはいえ、当然ながら製造手直しの指示が下った。これも面倒な話。それに関しての製造手直しやら納期やら費用やら(当然先方持ち、値上げ無し)の前後策を決めた後にやっと夕方、辞去する段になりました。

同社営業責任者の運転で帰りのリスボン市街のホテルまで送ってもらうことで、ほっとしたのは束の間でした。その後にあまりの怖さ。あれは今でもクリアーに記憶しています。

先輩が小型車の後部座席に位置したので、助手席を指定され着座しました。運の尽き。高速道路に入るやいなや、突然 時速100Kmを軽〜く超える(たぶん140Km位と思う。私も当時は車を持って運転していたから分かった)速度で、疾駆する小型車(たぶんFIAT、それはこの際どーでもいいけど)。

その運転の酷いこと。前を行く車をぐいぐいと次々に追い抜くために彼は右に左にとステアリングを切る。F-1レーサーかお前は⁉️と腹が立つやら、事故るなよと神に祈るやら🤞…。英語が母国語ではない彼にスピード落とせと話しかけて、誤解されて更に速くなったら⁉️が頭をよぎる…、また話しかけて運転の邪魔をしたりすると返って薮蛇になるか、危ないな、ってなことまでを強く危惧。

「コイツのめちゃくちゃな運転のせいで、ポルトガルリスボンで出張中車の事故で死ぬかもな‼️」 …と本当に思った。とんでもないやつだった。そうして黙って体を硬くして小一時間、私の体は恐ろしさで終始固まっていました。

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💮話を欧州サーベイに引き戻します(笑)。

この頃インターネットなんかまだ世の中にありません。当時国際通信で主流だったのは無線通信。

  • (1980年入社の私の最初の仕事は海外と国内の無線通信と宇宙開発・人工衛星、そして通信制御でした。「仕入品」と測定器、当時の労務外工、国内工事、ソフトウェアを「買っていました」)

電話は衛生通信で回線がつながっていました。その世界的なインフラ施設の規格は、 INTELSATスタンダードA型(大型)📡 です。そしてその中心の一つが衛星通信用アンテナでした。日本語でアンテナのことを『空中線』と言います。

  • 空中線の通信位置合わせのため、上下の軸と左右の軸を使い、緯度と経度に機械駆動で合わせていく機能部品が "ジャッキ"(アクチュエイターとも言う → 後年、米国で人工衛星用🛰を調達した)であり、我々一行はその欧州メーカーを探していました。

日本の仕様・設計通りに欧州現地で作れてさらにアフリカ国の通信局舎のサイトまで輸出・輸送することが可能な、新規欧州サプライヤー。それを探しに出かけたのでした。なぜならば日本で作ってプロジェクト(PJ)国まで輸送するより欧州からの出荷の方が輸送費が節約できるためです。通信局のフルターンキーベースPJ の建設製造コストを節約するためです。それで日本人設計マネジャーと3人で五ヶ国五日間の 弾丸ツアー をしたというわけ。

このとき、PeterがLondon事務所から訪問先五社を探し、計画からアレンジまでをしてくれた。訪問先全てのアポイントメント、訪問順序と宿、それらの全体旅程までを計画し準備してくれた。もちろん英国ロンドンにいる🇬🇧英国人だし、最初からこの欧州大陸五社を知っていたわけも分かっていたはずもなく。きっと3倍か4倍の数の相手を彼は調査して、打診をしまくったはず。その労苦と成果には脱帽、大いに感謝🥲です。

【Germany】
 鉄道で移動したドイツのメーカーは名前も知らぬ地方にありました。なんと駅前にタクシーもいないローカルな最寄り鉄道駅。そこから運悪く、緩やかな登りの坂道。そこを汗だくになりながら三人で歩いたものです。(当時、車輪付きsuitcase、まだありません。)

汗だくの私は💦、涼しい顔で対応する冷徹な雰囲気を醸し出しているダークスーツ姿の長身ドイツ人達と商談をしましたが、なんとなく彼らは機械仕掛けのように正確で精悍な男たちに見えた。ドイツのエンジニア恐るべし!

【Italy】

一方、イタリアの町工場では、派手なネクタイに、デザインフレームの眼鏡をかけた、超が付く明るく派手派手な社長が対応してくれたのとは実に対照的でした。彼は中小工場の社長という感じには見えず、全くファッションモデルのようでした♪

今でも笑える…WW IIの日独伊三国協商はお国柄が妙に噛み合ったのだろうか?

  • そして、ヘルシンボーグから載った国際フェリー🚢のデッキで見た、北ヨーロッパの風と青い空のこと。あれは今も忘れない。

海外通信プロジェクト調達の仕事はこんな風にダイナミック。しかも凸凹で実に面白かった。入社以来の希望が叶ったとき。

これよりずっと前、国内担当から本社へ移動したばかり 1986年平社員の時。初めての海外PJタスクのことまで連鎖して思い出した(笑)。

ある日ある時。通信用鉄塔を海外の外注製作先に契約発注したところ、三角鉄塔四角鉄塔の違いで大きな揉め事が起きた。実は今となっては何が問題だったのか、すっかり忘れてしまったが。

テレックス(当時の通信手段)でArgument (論争) ほぼ論理的な口喧嘩を毎日膨大な量で英語で行った。毎朝出社すると時差の関係で前日のこちらが通信した言い分に対して先方から長〜い反論が届いている。

それを読み、事業部のコンタクト先に実態を聞いてはすかさず相手にガツンと言い返す。長文を意識した理詰めで打つ連続。

海外のその相手は新米担当者の私には手強かったが、なぜか一歩も引けを取らず、毎朝出社するとものすごいパッション(テンション)でガンガン言い返していた。

  • 我ながら大したタマだったのだろうか?上司の課長からは感心された(いゃ呆れられた!?のかも)なんてことも…

あぁ、それもあったわな。

今もこの時の経験やDNA的なものが私の中にある。熱く流れ続けているかもしれません…。

Stay hungry, stay foolish !! 

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