(今回はかなり、堅苦しい議論になる。)
何事もなく平穏無事に過ぎれば社会は深化しない。何かが起こり…問題視され…そして議論が沸き起こることで人々は注目し、「事」は更に大きくなる。事態とは、事の状態だから常に変わっていく。「コト」が起きたら当時の正しい事実に基づき、法の精神や正義の理念で判断して、世の中は良くなっていく。『課題』に挑戦することで我々人類は進化できる。
間違ったコトは質され、間違っていると判断されれば正される。その結果の積み重ねにおいて(のみ)社会は良化していく。他に道はない。
結局は、ヒトはヒトでしかなく、神ではないのだから。
出所 : フジテレビ 2020/10/11(日)
『合成の誤謬』にあふれる今の日本の社会システムを、誰かが表沙汰にして、粛々と変えていかなければ、日本の未来は暗いものになるだろう。
よりポジティブに言うならば、「庶民の感覚でおかしいと思うことを是正して行く」、理念先行型ではない、堅実な実務的な改善の積み重ねの上にのみ、政権やリーダーたる者の評価は良いものとなる可能性がある。その結果、社会と組織は人々に有益になる。
学術会議のあり方。選出経緯の論議は、いつもの喧しいマスコミと昼のワイドショーに譲ろう。彼らには騒ぎ立てるネタが常に必要だ。コメンテーターは時間が無いと食べていけない。
ともかく根本的に行政改革の対象としてもう一度システムとしてメリット・デメリットと予算から体制までを見直した方が良い。河野大臣の表明している方向性に賛成だ。
北大の教授が、外航船の燃費改善の研究をしようとしたところ、日本学術会議が「軍用技術」に転用されるとして横槍を入れたとか。表に出ない内部のおかしな横槍行動はマスコミには調べられない。誰かがクレームするか、内部告発しなければ世に公とならない。既得権益にあぐらをかく組織は自己を正当化する理論で固め、防御する。世の常である。
自民党には「ハンコ議連」?、と言う風な勢力もあるらしい。既得権益を守ろうとするものは常に、意見を異にする者を敵に仕立て上げ、口撃を加える。
日本学術会議も、判子をなくす(デジタル化、電子化)の議論も、すべからくあらゆる変化・変革に賛否両論はもちろん当然だ。大局的な国家観や大計画、方針・方向性を持つ議論の上に、法治と民主主義、自由主義のプラクティスを確保してほしい。法の支配下で政治・行政が決めるには正しい議論を期待する
— Andy S. の雑記帳 (Andy-e49er) (@Accurasal) 2020年10月10日
アカデミア、academismって何だ?
👇私の体験談を語ってみたい。以下、実話である。
[https://twitter.com/Accurasal/status/1315074162281443328:embed#大学時代、憲法学の教授が極端な自己主張(自分の学説)を繰り返す授業を行い、実に辟易した。常にそのような講義しか行わない。必須科目である。学費を払い学問の自由の下で、なぜ?一教授の自説だけを押し付けられなければならないか。大いに疑問だったし大学のあり方に疑いを持った。学問の自由と、教育機会均等(学ぶ側の学説選択の自由)を阻害していた実例である。]
☝️一言で断じると、「完全に偏向している学者」の目前に、白紙で吸収力あるフレッシュな若い18歳を晒した、ということになる。実にこれは社会悪だと思う。現代であれば、内部告発して然るべき(かも知れない)。学費を払う受益者として正当なクレームであったとも思う。
学問の自由の理念。「あれ」は妙な教授(の立場と主義主張と講座の存在)を守るだけの "偏った学問の自由" の典型例だった、と思う。最高裁で判断する違憲の話や学説の羅列。自らの学説や持論だけでなく、反対する方も取り上げ、学生に議論を闘わせるような知的作業のかけらもない。
両論を公平に講義してバランスよく教える、あるいは考えさせる、と言う教育者のまっとうな意思も技術も完全に欠落していた…実に残念だ。
そして判子。「日本の文化と伝統」、理屈それ自体はとても良いものだが、既得権益を守らんとするものは対する議論やアイデアの全てを否定したがる。堤防の一部が決壊すれば、全てが崩れ去るかのように振る舞う。窮鼠猫を噛む。
(後述に続く)
学問の自由は保障される。ある種、内心の自由の延長線上に学ぶことの自由度は確保しなければならない。その一方で国家としての安全保障や環境や産業振興・経済、法治国家等々の国家運営に必要な方向性(=国会、政府、司法)の観点は必須だ。大切なことは、合理性と説明責任・透明性。最後は法の支配だ pic.twitter.com/7KQwNEI4hg
— Andy S. の雑記帳 (Andy-e49er) (@Accurasal) 2020年10月10日
👉(続き)このような過去のトラウマを癒すのは他の誰でもない。
自らが社会人として民間企業の、国内海外両方の仕事(いずれも取引法務と対外交渉、折衝や渉外に密接に関わった。また内部統制や内部管理(遵法)・コンプライアンスでは事業ラインを正しく導く作業・・・)の連続、実務の積み重ねの中で、取引実務に即した現場なりのビジネス法学と言うべきものを、常に体で学んできた、と言うことかもしれない。
以上の観点と実体験から、古き一法学徒として、『赤い巨塔』は象牙の虚像、そして独りよがりのacademism に思える。
両論併記、オプションを示すこと、プランBは何か。常に複数の選択肢を評価して正しい方向を選ばねば、種は滅びる。
私個人は(結果論ではあるが)社会人として企業人として、何より国際ビジネスマンとして、取引法務や契約法務、企業や個人が守るべき社会と経済の法を、マネージする手法を、仕事を通じて学んだ。そのことが何よりも素晴らしい経験値とアセット(個人資産)になっている。それらは今の仕事にしっかりと根付き、結果として相談してくる人と社会にはなにがしか役立っていると思える。それが大切だ。
アカデミズムも、判子を使う伝統と文化も、良い点は残し、悪い点は切り捨てる。是々非々が良い。そのことに鋭く反対だけする人はいないはずだ。反対のための反対は、イデオロギー対立を生むだけで生産性のかけらもない。世の中と人々の生活の進化をせき止める(悪)だと思う。
反面教師は常に有効である。生きていく上で…