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「勝海舟と福沢諭吉」

新刊書・勝海舟福沢諭吉を読了した。副題は、「維新を生きた二人の幕臣」安藤優一郎著(日本経済新聞社刊 2011-4-15 第一刷)
 ■表題の二人の思想と実像を垣間見る一種の伝記として読むこともできる推奨本。著者は早稲田大学文学博士で、歴史家。江戸が研究テーマ。
◇本著の主張・特徴は、福沢諭吉勝海舟(諭吉より11歳歳上。ともに咸臨丸で渡米。ともに比較的低い身分から立身出世して幕臣になったもの、という境遇の似ている同士)と外務大臣にまでなった榎本武揚を痛烈に批判し、それを自身の新聞社・時事新報で公表したことと、現代に残る二人のイメージとはかけ離れた実像を残されている記録から浮き彫りにして40年に渡る二人の関係を詳らかにしている点だろう。明治34年(1901)の元旦、諭吉はこのときに68歳で、二年前に勝海舟は、77歳で死去していた。その年に有名な「福翁自伝」刊行。
◇いずれも江戸幕府(徳川政権)の幕臣だったにも関わらず、王政復古後の明治政府に乞われたとは言え、仕えたことを諭吉は問題視。「痩我慢(やせがまん)の説」、そして武士道に反する、として批判。勝海舟には隠居を求めた。
1887年に65歳で伯爵を授けられ華族にまでなった海舟。1891年には、諭吉が58歳で「痩我慢の説」を作成。翌年、海舟と榎本へ送る。
◇海舟は、諭吉の批判を相手にせず、“ 諭吉は「徳川幕府あるを知って日本あるを知らざるの徒」、自分は「百年の日本を憂うるの士」政治家の自分と学者の福沢では進むべき道が違う” とかわした。言い換えると両雄の思想である、幕末以来の共和政治論と将軍絶対君主論の対立が透けて見えてくると言うことで、ここに至る経緯を両名の足跡や、時代背景、咸臨丸での渡米エピソードを交えて仔細に語る。
◇福沢は明治維新の本質は徳川家と薩長などの権力闘争に過ぎない、と見ていた。彼は中津藩士の子で貧しい陪臣の身から幕臣へと立身出世。
元は蘭学者でそののちに英語の通訳で幕府の外交文書の翻訳係を勤めた。弟子を複数時の政権に持ち、政府に運動して(コネを使い)今の三田の元島津藩の土地を払い下げで取得。慶應義塾を創設。この辺の土地取得の話はやや早稲田出身の著者による慶應創始者への批判めいた分析なのかもしれぬと想像も出来る…?
◇この本で初めて福沢諭吉という歴史上の有名人の実像をまじかに知ることができた。また一瞬だが同時代の政府要人であった大隈重信との関係や、それを疑った薩摩出身の大久保利通などによる明治14年(1881)の政変の逸話。当時の保安条例で指名手配された諭吉という側面にも触れており、日本政治の一端を垣間見ることが出来る一冊と言えるだろう。